2010年02月
2010年02月08日
会食、そして別れ
いやぁ~、今日の関東は暑かったね~。
普通にコートを着て家を出たんだけど、途中汗が出てくるような状態に。
都心の最高気温が21度って。
夜は夜で電車の中が熱気ムンムン。
隣に立っていた方は汗が噴き出ていたり、しかもその前にいた女性は、
な、な、なんと・・・。
毛皮のコートを着ていたわけ。
うひゃ~、これって本人だけではなく、隣接している人にも大きな迷惑のような気がするんですけどぉ~。
さて、今日は久し振りに男の手抜き料理でも・・・。
健康にいいかどうかは保証しませんけどね。
もともと芋料理が好き(というかポテトフライが好きなだけ)な僕だが、しっかりジャガイモを素揚げして作ることも多い。
でも時間がないときは冷凍モンで済ませてしまうこともあるんだけどね。
で、今日は男の手抜き料理だから(笑)、冷凍モンを用意。
それから玉ねぎを1つ。
にんにくを数個。
これだけ、ね。
この3種類をお皿に乗せてラップをかけ、電子レンジでチンをする。
冷凍のジャガイモが解凍されたらOK。
フライパンに油をひいて中火でにんにくに焦げ目ができるぐらい焼いたら、くし形に切った玉ねぎとジャガイモをフライパンに入れ、塩・コショウで炒めるだけ。
にんにくがホクホクしておいしいんだよ、これが。
ちょっと余談なんだけど・・・。
以前、中国産のにんにくを買って、数日放置しておいたら中から虫の抜け殻のようなものが出てきたことがあるんだよね~(しかも数か所から)。
抜け殻・・・のようなものだから、虫なのかどうかわからないんだけど、それ以来恐くて、ちょっとお高めだけどやっぱり日本産のものを使用するように心がけている。
もし抜け殻だったら・・・。
その虫は・・・?
どこにいったのかと・・・?
想像するだけで恐ろしい。
やっぱりまだまだ食物は中国産を控えた方がいいかな。
2010年02月07日
四十九日法要
(昨日の話の続き)予定では夜9時を過ぎるということだったが、8時過ぎにK三叔父の二男のM志が二人の子供を連れて到着。
M志には3人の子供がいるのだが、ひとりは受験のため欠席とのこと。
奥さんのM子も翌朝来ることになっていた。
大学時代からお正月といえば故郷の北海道にはほとんど戻らず、ここ茨城で過ごすことが多かったほどお世話にあった家である。
そして叔父を交えて男4人が揃えば、まずはお酒。
そのあとは麻雀・・・となったのはM子叔母が生きていた頃である。
そういえばあの頃、充分僕らを酔わせてから麻雀を始めたのは叔父の作戦だったのだろうか(笑)。
まだまだひよっこだった僕らはお酒を飲めばすぐに酔っていたわけで、酔わせて勝とうなんて非法な手段を取っていたのかもしれない(ちと考えすぎか)。
それでも話に花が咲くのは今も昔も変わらない。
M志は僕と同い年だが、どちらかというと大雑把な性格で僕の目から見てK三叔父とは相性がいいように思う。
1歳上の兄、Y志は理知的で細かいことまで考えるタイプ(叔父と一緒)なので衝突することも多いようだ。
今思うとY志は父親よりも母親と波長が合っていたように思う。
僕もこの二人と付き合うときは、どちらかというと別々に会うことが多い。
都内で3人で会った記憶がない(苦笑)。
あっという間に夜も深まり、病み上がりの叔父をベッドに寝かせ、その後は僕らで再び乾杯。
明日の朝は早いから・・・などと話をしていたが、結局寝床に着いたのは深夜0時を回った頃。
翌日目が覚めたのは早朝6時。
それでも僕は布団の中でもぞもぞしていて、結局布団から起き出したのは7時過ぎ(ここではいつもそうだ、と我ながら苦笑の連続)。
勿論K三叔父はすでに起きていて、見た目は元気いっぱいの様子。
朝だって応接間に行けば叔母が作った朝食がテーブルに載っていたはずなのに、そういうこともない。
台所にはY志が立っていたり、M志が立っていたり、この家には似合わない風景だ。
もちろん僕も手伝うのだけど勝手が今一わからず戸惑うことばかり。
それでも叔父はコタツに入って昔のようにテレビを見ている。
叔母が生きていれば・・・と、そればかり頭の中を駆け巡る。
朝食を終え、一段落した頃に従兄のS、その奥さんのK子さん、M志の奥さんのM子さんが到着。
すぐ後に同じ茨城県に住むS子叔母、娘のS代(従兄妹の中で最も年下)も到着。
それから亡くなった叔母方の兄姉などがやってきて、出発間際に千葉県に住む(従兄の中では年長の部類の)Tが到着。
それ以外は現地集合ということで、いよいよお寺に出向くことになった。
この日は北風が冷たく、退院したばかりの叔父の体には負担のかかる気温である。
実は叔父への手土産として、お菓子などを持ってきてもほとんど自分で食べないのを知っていた僕は、前日渡した崎陽軒の中華粥以外に、ユニクロのヒートテックの下着を持ってきていたので、それに着替えさせてあげていたわけ。
こんなに寒いならホッカイロも用意してあげればよかったなぁ。
まさか温暖なこの地域がこんな寒さになるなんて予想だにしていなかったことなのだ。
お寺で他の親戚と合流後に四十九日法要が始まるのだが、なかなか全員が集まらず、しばらく待機することになるのだが、お寺の本堂はさらに冷え冷えとしていて暖房器具のストーブの周りにいてもかなり寒い。
叔父の体ばかりが気になる。
時間の都合もあるので、遅れている人たちはさておいて一通りの儀式を始めることにする。
その間も隙間風の通るようなところにじっと座っていなければならず、健康な僕らでさえ幾度となく体をこわばらせていたのだから、最前列の一番寒い位置にいた叔父は本当に大変だったと思う。
叔父の入院を知っていたのはほんのわずかで、退院する前日に偶然に知った人も数人いたらしい。
それでも多くの人は知らなかったので、叔父の体調を気遣うものの病気を気遣うものではなかった。
滞りなく四十九日法要を済ませ、外に出ると更に北風が強く感じられた。
移動のバスに乗り込もうとしたら目の前に白いものが・・・。
雪だ。
東京や埼玉では数日前に結構な量で雪が降ったが、ここ茨城ではどうも初雪らしい。
位置的には東京よりも北にある茨城だが、それほど温暖な地域なのである。
その地域で雪が舞い散るほどなのだから、この日はかなり冷え込んだ一日だったと言えよう。
僕はK三叔父に、
「少しは下着、役に立ったかな?」
と尋ねると、
「そうでもないよ。」
の答え(苦笑)。
まだヒートテックの効果がわかっていないか、それ以上の寒さだったのか、多分それは僕にさえ効果が感じられないほど冷え切った一日だったと思われる。
2010年02月06日
K三叔父の退院祝い
(昨日の話の続き)K三叔父を連れて家に戻ったのはお昼過ぎ。
さぁ、これからが大変。
当初は叔父が入院しているものと想定していたので、いろいろとスケジュールが変わりつつある(もちろん一番大変なのは従兄のY志だが)。
しばらく人がいなかった家の中はひんやりしている。
いや、かなり寒い。
もちろん叔父が入院している間は息子二人が入れ替わりで出入りしていたのだろうが、さすがにこの日は寒波もピークになりつつあるようで、正常な体の僕らだって厳しい寒さである。
さっそく部屋の中の暖房機器を点けることにした。
叔父の家は一部を除き床暖房になっている。
畳の部屋も電気カーペットが敷かれているのでとりあえずしばらくすれば暖かくはなる。
その上、エアコンもコタツも・・・。
僕なんか暑がりだから、コタツに潜り込むなんてほとんどない。
一番安心なのは24時間タイマーでオン・オフがセットされているので、エアコンにしろ床暖房にしろ、規則正しい生活をしている叔父にとっては目が覚めたときには部屋も暖かくなってくれているわけだ。
まぁ、それは安心だが、今日はそうではない。
北風吹きすさぶ時期に人が住んでない部屋に戻ってきたわけで、しばらくは叔父をコタツに入れておくことにし、僕らは買い出しに出かけることにした。
M子叔母がいなくなったことを痛感させられる。
僕ら2人で食事をするならどんなものでもいいのだが、叔父の食事はそうはいかない。
特に食事の制限は聞いていないが、やはり高血圧気味だとなると塩分は控えめにしなければならないわけで。
まぁ、お昼はトーストで良かった(これは叔父のリクエスト)のだが、夜はそういうわけにはいかないだろう。
僕から見るK三叔父は多趣味でもある。
高齢者独特の庭いじりや鉢植えのお世話は勿論だが、つい数年前まではボーリングに興じていた時期もあったし、僕らが集まると率先して麻雀の準備をするわけだ。
ボーリングはマイシューズ・マイボールを持っていたり、高齢なのに平均スコアだって150ぐらいはあったと思う。
しかしここ数年は僕らも相手をしなくなってか、現役を退いた頃からそれらの趣味からパソコンを相手にすることが多くなってきた。
叔父のパソコン部屋は最も寒い北側の部屋。
これは本当に体に悪い。
僕はY志(叔父の長男)に相談して、男手のあるうちにパソコン部屋を移動しようと提案した。
2人で叔父を説得させ、一番暖かい日当たりのいい部屋に置くことにした。
この家に遊びに来るたびにいつもお客さんの立場だったが、この日はそんなことは言ってられないわけで、むしろ誰よりも率先して動く立場だった気がする(笑)。
パソコンやプリンターは勿論だが、それに必要な書類棚なども移動してあげることにした。
叔父の病気を少しでも和らげるために、寒暖の差がないようにすることもひとつ。
これで心配の一つは改良されたかな。
従兄のY志はテキパキとひじきの煮物を作っている。
「Yちゃん、そんなの作れるの?」
「まぁ、何となくね。今日は親父のために塩分はいつもの3分の1ってところかな。」
横で僕は長ネギを切って、生姜を磨り下ろし、冷ややっこ。
台所に立ち、M子叔母の目線を考えていた。
叔母はいつもこの場所に立ち、何を思っていたのだろう。
台所から見える応接間に座る叔父・・・。
テレビを見ているときの叔父の姿、新聞を読んでいるときの叔父の横顔、庭を眺めているときの叔父の後ろ姿・・・。
そんな姿を見て幸せを感じていたに違いない。
叔母はそういう人間だったと思う。
今までその位置に立ったことのない僕が感じるのは、叔父の細くなった姿とこれからの不安ばかりなのだが・・・。
叔母の存在感の大きさを痛感していた。
まぁ、一応退院祝いということもあり、叔父にもビールを注いであげることにしたが、これも量は控えめにしていかなければならない。
「一応、乾杯ね。」
と僕。
しばっち家は飲兵衛の一族であることは間違いない。
口数の少なかった叔父もお酒を飲むと口が少しは動いてくれる。
多くの共通する話題があるわけではないが、僕は自分の親兄弟の話を聞くのが好きだし、それぞれの歩んできた道を聞くのも楽しい。
叔父が小さかった頃はどんな人間だったのか、自分の目で見たことのない親の世代の生き様を聞いておきたかった。
すでに時間は夜の8時をまわっていた。
2010年02月05日
わがままなK三叔父
実は2月5日(金)・6日(土)は昨年の暮れに亡くなったM子叔母の四十九日の法要があったためである。
そして、今年1月中旬に突然入ってきたK三叔父の緊急入院の連絡(注:K三叔父はM子叔母の夫)。
病名は解離性大動脈瘤ということで、入院した当初はかなり危険な状態だったらしい。
それもそのはず。
叔母が亡くなる前後は不規則な生活を強いられていただろうし、見舞客や弔問客が来ればお酒は飲むし・・・。
その後一人で暮らしていても執筆活動などに精を出していたのが伺える。
こまごまと頑張って動く叔父のこと。
きっと慣れない一人暮らしの食生活だって大変だったろう。
ところが、4日(木)の夜に叔父の長男のY志(僕にとっての従兄)からメールが入り、
『明日、親父が退院するらしい。』
との内容。
えええええ
叔父が入院しているからと、大量に購入した崎陽軒の中華粥の立場は?
重いお土産を持ちながら上野駅でY志と待ち合わせ。
もちろんK三叔父の入院を知っていたのは、家族以外に叔父の弟のE夫叔父とY久叔父、従兄のSさん、そして僕だけ。
それ以外は口外するなと口止めされていた(それが原因で後にいろんな事件が勃発することになるのだが)。
特急電車に乗り込み、2人でK三叔父について語る。
「実は夕べ、電話で親父さんと喧嘩したんだよ。」
「えっ?」
「突然『明日退院することになったので、朝、直接病院に来てくれないか。』って言うからさぁ、『何言ってるの?』って言ったらさ・・・、『いいよ、お前が来ないんだったら、俺が退院手続きを取って一人で帰るから』って受話器をガツッて切ったんだよね。」
と今まであまり聞いたことのないわがままぶりを言いだす叔父を想像していた。
「俺、慌てて病院に電話して直接看護師に聞いてみたら、必ず身内の方の同伴のもとに退院することとなっているので、大丈夫だっていうんだけどさ。
きっと親父は四十九日に合わせて退院することを医者に圧力掛けたに違いない。」
Y志はかなり困惑している状態なのがわかる。
四十九日の法要の準備も彼の弟のM志の二人で着々と進めてきて、K三叔父が安心して治療できるように配慮していたわけで、まだまだ爆弾を抱えた体で戻られるということの不安があるようだ。
一時的な外出許可を得るのとはどうも違うらしい。
駅を降り、タクシーに乗り換え、一路病院へ。
叔父の入院している部屋に行くとすでに洋服に着替え、荷物もしっかりまとめてベッドに座っている叔父。
これには2人で苦笑
「おじちゃん、びっくりしたよ。もう大丈夫なの?」
と、気を利かせ先に僕から声をかけると、
「あ、うんうん。大丈夫だよ。」
といつものやさしい返事。
息子2人と同年代の僕には、彼らと同じように接してくれるので、僕はいつもK三叔父に甘えてばかりだが、今日はちょっと言葉を強く言っておかねばならないと思い、
「夕べ、Y志からおじちゃんの退院を知らされたんだけど、問題ないの?」
「きちんと生活できるの?」
「注意しなければならないことは聞いた?」
叔父の返事のほとんどは、
「あ、うんうん。」
直接息子が詰問するよりも、僕が言う方が叔父は頭に血が上らなくてすむだろうとの配慮だ。
Y志は半分諦めながら、
「一度目のレントゲンの結果は見せてもらったけれど、2度目の結果は見せてもらってないし、俺も心配だから主治医にきちんと聞きたいんだけどいいかな?」
「あ、自分で安心したければ医者を呼んで聞けばいい。」
とちょっとぶっきらぼうに言うK三叔父。
その数分後に主治医がやってきて、今までの経過やこれからの注意点などを聞いたのだが、医師の「本人の希望もあり」という言葉を二人で聞き、案の定そういう根回しをしていたのが伺えたが、この先入院していてもすぐに良くなるものでもないし、自宅で療養してもそれほど変わりはないということも分かった。
ただ、僕らの心配は一人暮らしを強いられることだけなのだが・・・。
とにもかくにも、叔父が自分で決断してしまったことを今更僕らが覆すことはできそうにない。
ナースセンターでも受付でも自分が率先して前に立ち、
「お世話になってありがとう。」
って(笑い)。
実はこの病院、亡くなったM子叔母が最期までお世話になった病院だから看護師とも顔なじみなわけ。
僕らの出る幕なんてこれっぽっちもないんだから。
2010年02月04日
風の中のオーストラリア
給油中にガソリンスタンドの横にある小さな建物の中で休憩をすることに・・・。
ここでは軽くクッキーと温かいコーヒーで暖を取る。
それにしても寒い。
南半球の1月といえば真夏だというのに、半袖シャツはおろか、上に一枚は多く着ていなければ震えてくるほど寒く、この寒さは北海道の夏でも体験したことがない。
このツアーで使用したワンボックスカーにもおいしいドリンク・・・ガソリンを~。
もしこのツアーに参加したければ是非ドアに書かれている電話番号へ~(笑)。
車体のフロントガラスの上に掌のロゴがあるが、最近はこういった色を使うロゴマークが多い。
色などにも意味があるのかもしれないが、こういう色合いを見るとどうしてもオリンピックを思い出すのは僕だけだろうか。
温かいコーヒーを飲み終え、ピナクルスに向けて出発~。
相変わらず車内は盛り上がっている。
しばらく直線道路を走るとT字路に差し掛かる。
その突き当たりにある看板が上の写真。
僕はオーストラリアでこういった写真の撮り方がお気に入りで、ついついどこでも同じように写すのだが、やはりバックは青空がいい。
「この看板にはちょっとした傷跡があるので、車を降りて見てみましょう。」
と言われ、そばに行ってみると、確かにそれはあった。
これは誰かが散弾銃でいたずらをしたものだという。
単なるいたずらにしてもやはり危険なこと。
何の目的でここを撃ったのか、なんてことはわからないが、せっかくの説明だったので、写真にも残しておこうと思って写してもらった。
さて、もう一枚の写真。
これは何だ?
道標の看板のある場所からわずか10mぐらいのところにあるこの物体。
人の顔が描かれ、その上には「BARLEYMAN」と書かれている。
「BARLEY」って「大麦」のことだから、直訳すると「大麦男」ってことだ。
それにしてもこのあたり一帯は民家の一軒も見えない場所なのに、何の意味でこんなものがあるのだろう。
この写真を見てわかる人はきっとオーストラリア通かもしれない。
もしくは、日本にもこれに似たようなものがあるかもしれないが・・・。
そういえば、以前、世界ふしぎ発見か何かの番組で道路の横に大きな球形のものがあって、
「これは何でしょう?」
っていう問題が出ていたのを思いだした(それと同じなんだけどね)。
ヒント1 このあたり一帯には目立つものがない。
ヒント2 このあたりには民家が見あたらない。
ヒント3 顔部分に取っ手がついているが・・・。
ヒント4 できるならそばにあるといい・・・。
えっ?
そばにあったほうがいい?
どこの?
う~ん、家の・・・、う~ん、できれば玄関の・・・。
と、ここまでじらしてみたが、わかった人はいるかな?
あ、この写真はヒントでも何でもない。
では、正解を~。
実はこれ、手作りの郵便受けなのである。
日本ではなかなか考えづらいが、オーストラリアの牧場や農園は日本とは比較にならないような広さで、一件で所有している牧場だって直線距離で移動したとしても1時間(車で)なんていうのはざらにあるらしい。
子供たちも学校に通えず、パソコン(ネット)で授業を受けている人もいるぐらいだからね。
その牧場主の家はどこにあるのかわからないことも多く、たとえ知っていたとしてもそこまで郵便物を運ぶのは困難に近いわけだ。
そこで、郵便受けを道路脇に設置することになったのだが、目立たなければポストマンも見逃してしまうので、できるだけ派手めなデザインをして目につくようにしてある
こういったところに旅行をしたら、郵便受けを捜してみるのもおもしろいかもしれない。
でも、牧場主が毎日ここまで来て(1時間かけて)、郵便物のチェックをするのだろうか。
中に何もなかったら悲しいよね~。
雨はそれほど降ってはいないが、風は強く感じる。
すでに他のツアー客は車中に入り込んでしまっていた。
僕は風の中で少しでもオーストラリアを感じていたかった。
2010年2月4日の日記
今日は時間がない。
明日、ちょっと朝が早いので寝ちゃいま~す。
おやすみ~♪
2010年02月03日
雨のランセリン砂丘
動物園での楽しい時間もあっという間に過ぎていく。
何度来ても楽しい空間である(日本じゃ動物園なんてほとんど行ったことがないのにね~)。
最後に観光客一人一人がウォンバットを抱いて記念撮影(ちなみに僕は何度もやっているので遠慮した)。
ツアー客は一路、雨の中をピナクルスに向かうため、カバシャム動物園を後にした。
ピナクルスまではかなりの道のりがある。
雨は相変わらず降っているが、車内はガイドさんの会話や案内で盛り上がっている。
ガイドさんはパースに来て2年目、それまではシドニーで生活をしていたという。
その後、タイ人の女性と知り合い、結婚し、子供も5人もいるというのだ。
タイ人の奥さんとのギャップはやはり食生活らしい。
特にカレーライスは日本ではトロ~リとろけるタイプなのに対してタイではさらっとしたスープタイプ。
最近ようやくとろけるカレーも食べてくれるようになったとか・・・。
窓の外を流れる景色は背の低いブッシュと茶色の牧草、そして雨雲だけ。
僕は一番後ろの席にいて、窓の外をずっと眺めていた。
こんな雨の降る日に思い浮かべることではないのだろうが、その牧草地帯の景色を眺めながら、昼間は牧草に横たわりながら青空を眺め、夕方には真っ赤な夕焼け空と、夜は焚き火をしながら星空と時間を共有してみたい・・・。
この分厚い雨雲を見ていると、さらにその思いは募るばかりである。
やっぱりどうせ目にするなら青空がいい。
西オーストラリアには雨雲は似合わない。
雨の少ない高温の夏が続くこの地帯は普通であれば、草木が枯れ、ときにはブッシュファイアと呼ばれる火事を起こすわけだが、このまま雨が降るようであれば、大地の緑も広がるかもしれない。
変化のない景色を眺めながら、数件の家並みが見え始めてきた。
この町はサーフィンなどでも有名になりつつあるらしいが、小さな町に到着をした。
また何の変哲もない小高い砂丘があるのだが、ここが観光客にとっては一つのポイントとなるランセリン砂丘と呼ばれるところらしい。
海風の強い場所で、外に出てみるとキャップが飛ばされそうになる。
さっきまでは雨が強かっただけなのに、ここではかなり風が吹いていて、傘を差して表に出た日本人のご婦人たちは開いた傘が反対側にひっくり返るなど、傘を差すのを諦めたほどの風の強さである。
ツアーガイドなどを見ると、四輪駆動車でこの砂丘を上り下りをしたり、段ボールを敷いて滑り降りたりできるようになっているのだが、さすがにこの湿った砂丘で遊びたいとは思わない。
こんな天気でこの砂丘を写してみても斜度などはあまりよくわからないが、かなりの勾配がある。
砂丘の向こうにはわずかであるが海も見える。
砂丘をよくよく見ると、四輪駆動車が走ったであろうタイヤの跡が薄く見える。
中央のゴミみたいなのは一応飛んでいる鳥なんだけど、なにせ雨も降っていて、その上、風が強いので何も考えずにシャッターを押したものである。
2010年2月3日の日記
今日は節分だね。
節分といえば豆まきだが、「まき」は「まき」だが、最近は恵方巻が関東でも定着している。
皆さんはやっぱり食べましたか?
僕は節分の日に食べたことがなかったので、今日はコンビニに寄って・・・。
職場のそばのファミリーマートにズラッと並んでいたので、一番多く入っている恵方巻(なんと1パック1000円×3パック也)を買ったのはいいのだが、この量をひとりで食べられるわけがない。
職場の若い連中に食べさせようと思ってね。
僕は一口あれば充分なので、女子スタッフと一緒に食べて、残りは若い連中でモグモグ。
体を使う仕事をしている連中だから、あっという間に食べていたが、少しは感謝しているのか・・・不明である(苦笑)。
昨日、郵便受けにまた一通の手紙が入っていた。
北海道札幌市に住む従兄のKさんからだ。
Kさんは『しばっち家』のいとこ会の幹事を引き受けているボス的存在(顔はやさしいけどね)。
もちろん従兄弟の関係ではあるが、僕にとっては年上のおぢさん・・・お兄さんの部類でもある(笑)。
しゅんち様
元気で活躍のことと思います。
手紙と「音楽付きCD」を受け取りました。
どうもありがとう。
暮れのM叔母さんの葬儀の際はお忙しいところ、ご苦労様でした。
手紙や写真によりますと、しゅんち君はこれまで、長い間日立の皆さんとは親しく付き合ってきた様子がよくわかり、それだけに残念に思われたことと思います。
思い出も多いのでしょうね。
K叔父さんから『闘病記・写真集』を送っていただきましたが、涙無しには読めませんでした。
ところでしゅんち君はデジカメやパソコンをずいぶん前から楽しんでいたようですね。
手慣れたもので感心しました。
『T次郎家いとこ会』には毎年30名くらいの方が参加しておりますが、今年はより多くの参加を期待しております。
Y志君、E子さん、M博君、しばらく参加のなかったI子さん、S子さん、Y君、N君などなど、大いに期待しているところであります。
しゅんち君も久し振りに皆さんにお会いして、小樽の風景を楽しんでもらえたらいいなと思っています。
安いチケットが手配できるように3月末ごろには案内状を出そうと思っています。
よろしくご検討のほどを。
まだまだ天候不順なこの頃ですが、体に気をつけて頑張ってください。
返事が遅くなり、申し訳ありません。
Kより
メールや電話で事が済む時代ではあるが、やはり手紙というのはどこか心が温まり、嬉しいものである。
Kさんと昨年暮れに再会した以前の記憶といえば・・・、そう多くはない。
やはり僕が北海道に住んでいた子供時代か、もしくは誰か血縁関係の人が亡くなったときぐらいで、お酒を注いだぐらいの記憶である。
どうしても年齢の高い従兄弟たちの間にはずうずうしく入り込めないシャイな人間なのである。
この歳になって、なんとなく従兄弟の一人として認められた気がする(笑)。
関東も氷点下の夜。
帰宅途中は雪だったが、舗道は思ったよりも積もっていない。
まだこんな天気が続くのかな?
2010年02月02日
タスマニアンデビル
この旅行記は2006年1月に行った西オーストラリア州のパース市を中心とした地域を当時の手記をもとに書いたものです。
旅行当時の地域の情報や価格などは現代とは若干差があることをご理解ください。
カバシャム動物園の続きだったね。
日本人の観光客はカンガルーやコアラを見て、オーストラリアに来ている実感がわいてくる。
もちろん何度も来ている僕だが、ここに来るたびにそういう実感は味わえて嬉しいのだが、今回は残念ながら雨。
動物園での時間はあまりないのでついつい写真を撮るのもおろそかになっている。
そして動物の名前がわからないときは上の写真のように写すのが一番手っ取り早い。
見たことのない(有名ではない)動物の名前などはすぐには頭には入らないからね。
それにしてもこの動物はどんな習性のものなのかさえ、わからない(汗)。
ほとんどの動物はどうしても主役ではなく、ある意味では脇役でしかない。
日本人がオーストラリアに旅行に来るときは、必ずといっていいほどカンガルーやコアラを見たい(会ってみたい)という思いを持って来るわけで。
でも、有名ではなくてもかわいい動物がいるのも、ここオーストラリアである。
最後にタスマニアンデビルのコーナーに行ってみた。
タスマニアンデビルは夜行性の肉食動物である。
暑い日中はネグラに潜っていることが多いらしいのだが、今日は冷たい雨で薄暗いこともあり、表に出てきている。
なかなか動いているタスマニアンデビルを見ることは難しいらしく、ガイドさんの方が興奮していたようである。
体長は7~80cmだということだが(写真だけでは大きいのか小さいのかなかなかわからない)、猫背のせいか(笑)小さく見える。
僕は一瞬ツキノワグマを想像してしまった。
真っ黒な毛並みの中に胸部分に白い毛があるからだが、動物というのは不思議なもので、この白い毛が何を意味しているのかわからない。
全身真っ黒でもいいのじゃないだろうか(どうでもいいことだが)。
大きさはコアラよりも小さく感じるのだが、やはり顔は肉食動物独特の顔をしている。
口を開けると顔の半分以上が開くし(ちょっと大袈裟?)、牙のような歯は鋭い。
テレビでしか見るチャンスがないので、ついついカメラで追いかける。
いつもはこの中に潜っているんだろうね。
以前、タスマニアの特集番組を見ていたときにタスマニアンデビルは生きた動物を襲うのではなく、死んだ動物を食べていた記憶がある(はっきりは覚えていないが)。
記憶は定かではないので・・・深入りするのはやめよう。
ということで、タスマニアンデビルは満足できるほど見ることはできたけれど、やはりこれ以上の時間をここで費やすわけにも行かず、そろそろピナクルスへと出発する時間が近づいてきた。
きっと僕は、また旅行に来てもカバシャム動物園の動物たちに会いに来るんだろうなぁ。
2010年2月2日の日記
夕べの雪はあっという間に融けてしまった関東の雪・・・。
それでも朝方はしっかり銀世界だったんだけどなぁ。
僕なんか平日はお昼過ぎに家を出ることが多いので、その時間にはもう路上などはほとんど雪がないわけで。
あっという間に雪景色も終わりなのである。
車道や舗道は雪がないが・・・。
土の上はまだまだ雪が残っている。
また、駅までの途中にある畑も・・・。
まだ雪景色~。
大根は雪に埋もれたままである。
アスファルトに積もった雪はあっという間に融けてしまったが、土の上の雪はまだまだ残っている。
昔は土の部分も多かったから、こういう景色も残っていたのだろうが、やはりアスファルトっていうのは地球温暖化の原因の一つでもあるんだね~。
2010年02月01日
雪明りの路
関東はとうとう雪。
実は朝からずっと雨が降っていたのだが、夜になってからみぞれ混じりの雪になり、その後はすっかり牡丹雪。
職場前の道も1~2cmの雪が積もり、滑りやすくなっていた。
ここで転んで怪我でもしたらとんでもないことになる。
一歩一歩、地に足をつけて歩く。
北海道に住んでいた頃って、そんなこと考えたことがなかったのになぁ。
職場から駅までの数分の道のりさえ、何度もツルリッと来た。
途中、電車を乗り換える時間にデジカメを取り出して数枚の写真を撮ってみたが・・・。
笑いごとではないほど、雪がドカドカと降ってきているのがわかる。
こりゃ、明日が心配だ。
先日、また僕の手元に北海道小樽市に住むY叔父から葉書きが届いた。
この叔父は親の兄弟の中で末っ子にあたる叔父である。
前略。
礼状が遅くなったがCDをありがとう。
早速パソコンにセットしてみたが、もともとパソコンはワープロ代わりの使い方しか分からないので、説明書を探したが見つからず、ただマルチドライブに入れてみましたが写真が出ません。
せっかく送ってくれたのですからもう少し勉強してみます。
今年は暖冬傾向との予報でしたが、雪は少ないものの気温は最低気温が氷点下10度前後となるなど、結構寒い日が数日あります。
あと2カ月余りの辛抱ですが、歳と共にしばれた雪道を歩くのが怖くなってきました。
そちらでは降雪などほとんどないと思いますが風邪を引かないように気をつけてください。
持病の治療で病院通いなどのため、お礼が遅くなり申し訳ありません。
これからも元気で頑張ってください。
早々
僕らの世代は若い頃にようやくPCが普及してきたわけで、同じ世代でもPCを苦手としている人は少なくない。
それでも僕の場合は発売された当初からかなり興味を持っていたので、職場にワープロやPCが導入されたときにいち早く手がけていたのも僕だった。
その頃、これからの時代はPCが職場管理をしていくと言われていたし、エクセル・ワードは勿論だが、一太郎も花子も全てやりこなしていかなければならなかった。
ところが、僕らの親の世代は・・・というと、このようなOS機器にはほとんど手をつけられずにいたわけで、それでも何とかかんとかワープロとして代用しているっていうのが現実ではなかろうか。
僕の知る限り、数名の叔父たちはPCは持っているもののインターネットにも接続せずに使っているということだった。
そんなわけで、僕の送ったCDもどうやって使ったらいいのか分からずにいるようで、不憫に思う。
そんな葉書きが届いた2日後に再び送られてきたのが、この葉書き。
前略
当地は寒い日が続いているが、御地も寒いことと思うが元気ですか?
先日、CDを送ってもらったお礼状に『出し方が分からないので研究する』とは書いたものの、10年も前のパソコンで、説明書もないため、止むを得ずM人君(僕と同年代の従兄弟)の奥さんであるM子さんに聞いて、ようやく写真の出し方が分かり、昨夜家内と一緒に写真を見ることができました。
沢山の写真を収めるのはさぞ大変だったことと思います。
どうもありがとう。
今までCDなんか見れないと考えておりましたが、今回送ってもらったおかげで勉強させてもらいました。
次は写っていた写真をプリントできるように勉強します。
まだまだ寒いと思うので健康に注意をして頑張ってください。
改めて御礼まで。
早々
こうやって年老いた叔父たちがPCに向かって悪戦苦闘している姿を想像しながら、“もしかしたら、ボケ防止のために僕は彼らに一役買っている?”って思っているんだけど・・・。
しかも、このCDというのは写真を見ながらBGMが流れるように作成してあるのだが、音楽ソフトが入ってなければ無意味だしね~。
今度、北海道に帰ったときには一軒一軒回ってPCの使い方講習会でも開いてやるとするか。