2005年10月20日
川崎物語
今年の初詣で川崎大師に足を運んだが、それ以来川崎には行くこともなかった。
昨日、友人Tと久しぶりに再会して、お互いの共通の場所に足を運んでみようと学生時代に住んでいた川崎に行ってみることにした。
僕が大学時代に住んでいた街は、同じ川崎でもほとんど北側の小田急線向ヶ丘遊園駅である。工業地帯の川崎のイメージは全くない比較的のんびりとした場所である。
近くには専修大学などもある学生の街でもある。
世田谷区から川崎市に引っ越しをしてから、約3年間(実際にはもう少し長い)はここでひとりで淋しく(?)、アパート暮らしが始まった。
小田急線も都内はほとんど高架になっていたが、多摩川を渡るとそれほど大きく変わっていなかった。
改札口を出ると目の前には記憶に残る小さなロータリーがあり、左側にはときどき立ち寄ったカレーライス屋さんが・・・。
しかし、ラーメン屋がなくなって不動産屋になっている。
ビルもほとんど新しい。
何よりも驚いたのは駅から遊園地までのモノレールが消えていることだった。
それに伴って道路も多少変わってしまい、時代の流れを痛切に感じたものだ。
のんびり歩きながら、昔、住んでいたアパートまで足を運ぶことにした。
「ここには本屋さんがあったね。」
「ここにはオムレツ専門の店があって、よく食べにいったね。」
「たしか、この道を曲がると銭湯があったよね。」
しかし、それらは全てなくなっていたのだ。
昔、お世話になった人たちはいないのだろうか・・・。
そして、駅から歩くこと10分弱・・・、僕の住んでいたアパートは立派なマンションに変わっていた。
あのときは、専修大学や国士舘大学の学生が住んでいて、みんな仲良くて、よくそれぞれの部屋で酒を飲み交わしたものである。
その当時、木造2階建てのアパートが3棟あって、僕は2階の角部屋に住んでいた。6畳の和室と3畳の台所にトイレが付いていた。
風呂がなかったから、毎日近所の銭湯に通っていた。
そして、今ではそれらは全てなくなっていたのだ。
マンションの後ろに回ってみると、
「あ、あのアパートは昔もあったよね。」
ようやく昔の面影のある景色があったわけで、それだけでも充分満足する想い出が甦っていた。
もう2人は今の年齢をすっかり忘れて、20歳の青年に戻っていた。
夕方には再び新宿に戻り、軽く飲むことにした。
翌日、早朝には成田に行かなければならないTとはそこで別れることになったのだが、実はこの12年の間、お互いに連絡が取れなかったのも事実なのである。
僕も引っ越しを2回していたし、Tもそうだった。
今回、故郷に戻ったときに、Tは僕の家に行き、母親から電話番号を聞いて連絡が取れたわけだ。
これからこんな事がないように、PCと携帯のメールアドレスを教え合い、お互いに密に連絡が取れるように約束をして別れた。
今度Tが日本に戻ってくるのが先か、僕がイギリスに遊びに行くのが先か・・・。
それは時間が経ってみなければわからない。
この歳になると、男同士の別れは照れくさい。
僕は埼京線に、Tは山手線に、それぞれ乗り込むことで、連絡通路で握手をして別れた。
昨日、友人Tと久しぶりに再会して、お互いの共通の場所に足を運んでみようと学生時代に住んでいた川崎に行ってみることにした。
僕が大学時代に住んでいた街は、同じ川崎でもほとんど北側の小田急線向ヶ丘遊園駅である。工業地帯の川崎のイメージは全くない比較的のんびりとした場所である。
近くには専修大学などもある学生の街でもある。
世田谷区から川崎市に引っ越しをしてから、約3年間(実際にはもう少し長い)はここでひとりで淋しく(?)、アパート暮らしが始まった。
【どこにでもある駅前の風景だが】
小田急線も都内はほとんど高架になっていたが、多摩川を渡るとそれほど大きく変わっていなかった。
改札口を出ると目の前には記憶に残る小さなロータリーがあり、左側にはときどき立ち寄ったカレーライス屋さんが・・・。
しかし、ラーメン屋がなくなって不動産屋になっている。
ビルもほとんど新しい。
何よりも驚いたのは駅から遊園地までのモノレールが消えていることだった。
それに伴って道路も多少変わってしまい、時代の流れを痛切に感じたものだ。
のんびり歩きながら、昔、住んでいたアパートまで足を運ぶことにした。
「ここには本屋さんがあったね。」
「ここにはオムレツ専門の店があって、よく食べにいったね。」
「たしか、この道を曲がると銭湯があったよね。」
しかし、それらは全てなくなっていたのだ。
昔、お世話になった人たちはいないのだろうか・・・。
そして、駅から歩くこと10分弱・・・、僕の住んでいたアパートは立派なマンションに変わっていた。
【この住所が学生(川崎)時代の住所でした】
あのときは、専修大学や国士舘大学の学生が住んでいて、みんな仲良くて、よくそれぞれの部屋で酒を飲み交わしたものである。
その当時、木造2階建てのアパートが3棟あって、僕は2階の角部屋に住んでいた。6畳の和室と3畳の台所にトイレが付いていた。
風呂がなかったから、毎日近所の銭湯に通っていた。
そして、今ではそれらは全てなくなっていたのだ。
マンションの後ろに回ってみると、
「あ、あのアパートは昔もあったよね。」
ようやく昔の面影のある景色があったわけで、それだけでも充分満足する想い出が甦っていた。
もう2人は今の年齢をすっかり忘れて、20歳の青年に戻っていた。
夕方には再び新宿に戻り、軽く飲むことにした。
翌日、早朝には成田に行かなければならないTとはそこで別れることになったのだが、実はこの12年の間、お互いに連絡が取れなかったのも事実なのである。
僕も引っ越しを2回していたし、Tもそうだった。
今回、故郷に戻ったときに、Tは僕の家に行き、母親から電話番号を聞いて連絡が取れたわけだ。
これからこんな事がないように、PCと携帯のメールアドレスを教え合い、お互いに密に連絡が取れるように約束をして別れた。
今度Tが日本に戻ってくるのが先か、僕がイギリスに遊びに行くのが先か・・・。
それは時間が経ってみなければわからない。
この歳になると、男同士の別れは照れくさい。
僕は埼京線に、Tは山手線に、それぞれ乗り込むことで、連絡通路で握手をして別れた。
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│「仲間」編