「青春」編

2011年02月05日

捨てられないもの







 そろそろ帰省準備もしなきゃ。

 と、結局忙しい週末までに準備したのはキャリーケースをクローゼットから出しただけ(笑)。

 いつもこうなんだ。

 さらに北国で凍死しないように(はて?)普段は履かないタイツや手袋も出すだけは出したが・・・。

 タイツ・・・、これを履いてしまうと暖かくて病みつきになってしまうのだが(笑)、この歳になってもほとんど履くことがないのは職業柄だ。

 それでも年に1~2度お世話になる年もあるが・・・、今年はまだ履いていない。

 世の女性諸君!

 寒い冬に短いスカートで足をさらけ出しているのを見ているだけでブルッと来るんだけど(目の保養になることもあるが、笑)、本人たちは寒くないのかなぁ。

 と、話がずれてしまった(汗)。



 極寒の北海道に行くのだから、普段よりは1枚多い服装を考えているのだが、最近はセーターなども着ないし・・・と数枚の厚手のシャツなどを引っ張り出したら・・・。






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 こんなかわいいセーターが出てきた。

 これは、僕が20代か30代の前半に長野県の栂池高原スキー場で買ったものだ。

 栂池高原に一番最初に行ったのは大学時代。

 スキー実習だったかな。

 僕の大学時代のスキー実習は菅平だったが、その翌年に栂池高原に変わり、その年は指導者側として行ったのが、最初だ。



 社会人になって生活に少し余裕が出てきた頃から毎年1度は行き出し、多い年では年に3~4回も足を運んだことのあるスキー場なのだが。

 栂池高原スキー場はスキーだけが楽しい場所ではない。

 当時は画期的なスキー場でリフトの台数も半端ではなかったし、その分、バリエーションも富んでいた。

 レストランやショップも充実していた。

 その通りにログハウスの小さなショップがあり、それ以来、グッズをよく買いに行ったものである。

 多分、ショップの名前はビッグベア

 もともとは東京の目白にあるテニスウエア専門店のJANNUの社長が作ったキャラクターらしいのだが、この熊さんに魅せられてしまったわけ。

 かわいすぎる

 それ以来、このキャラクター集めに夢中になり、当時はTシャツトレーナーはもちろん、キャップステッカーグラスも。



 写真は残っていないが、当時の愛車の四駆のドアにも貼ったりしていた(あのステッカーはかなり高価なものだったように思う)。

 これが、そのグラス。






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 このキャラクターはいろんな洋服をきているのだが、メインはその年にブームになっているスキーウエアのデザイン。

 エレッセやロシニョール、サロモン、フェニックスなどなど。

 とにかくブームに敏感な時代だった。

 このグラスはボーイスカウト風だね。



 さてさて、それよりもセーターの話だった。

 ある年の冬、栂池高原で目にしたこのセーターに釘づけになり、買おうと決心するのだが、そのときのお値段が・・・。

 ううぅぅぅ・・・、お小遣いが吹っ飛ぶよ~。

 って泣きついたことがあり、特別にかなり安くしてもらった記憶がある。

 このお店との付き合いもかなり長かったので、すごい優遇してもらい、本来お札が2枚だったものを1枚に(笑)。






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 でも、ここ数年、袖を通したこともないし、すっかり見落としていたように思う。

 久し振りのご対面なのだ。

 このセーターのかわいい所は絵だけではない。

 実は・・・、






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 背面はこうなっているのだ。

 そう!

 何が楽しいかって、この熊さんのセーターに限らず、Tシャツも前面に描かれている熊は前を向いているが、背面に書かれている熊は後ろを向いている。

 毎年、スキー仲間20人ぐらいでドバーッと買いあさっていた時期・・・、懐かしいなぁ。

 多分・・・、多分・・・だけど。

 今はこのお店、栂池高原にはないかと・・・。

 僕自身もTシャツなどは処分してしまってないようだが(曖昧)、このキャラのセーターやトレーナー、コートなど一部はまだ捨てられずにいるんだよなぁ。



 ちなみにこの熊に魅せられたあるバイク屋のオーナーがファクトリーベアっていうキャラクターで販売している時期もあったので、バイク通の一部の人がステッカーを貼っている時期もあったようだ。

 今はどうなっているのかはわからなけどね。



 でも、このセーター、

 もう、着るにはちょっと年齢が・・・。






shibacchi0821 at 23:51|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

2010年05月20日

♪ 若い旅 ♪







 ここ数日、特に何もなく過ごしていると、ブログのネタに何かないかなぁ・・・って、あれこれ考えている自分がいる。

 数週間前から始めている写真の整理(アナログ時代の)をしているうちに、自分の若かりし頃の写真を眺め、その時代の背景や友人たちの顔が浮かんできたりもする。

 僕は仕事柄、普通の人よりは多くの人間と接する機会が多かったと思う。

 また、その時代のヒット曲が浮かんできたり、人気番組も浮かんできたりすることがある。

 想い出っていうのは目で見たものも、耳で聞いたものも、鼻で匂いを嗅いだものも、残るもんだよね。

 写真は目の代わりをしていたり、レコードやカセットテープは耳の代わりをしていたり・・・、ってことあるでしょ?

「あ、そういえばあの曲ってもう聞けないのかなぁ。」

 なんて思いながら、ユーチューブを検索していたら、あった!あった!

 結構、あるもんだね。



 ということで、ブログにユーチューブを紹介するのは今回で2回目

 若い旅

 そんな歌、聞いたことない、

 ・・・よね~。

 興味があったらちょっと聴いてみて!













 僕が中学生の頃(だったと思うのだが)、どんどん音楽に興味を持ち始めた年代だと思うのだが、この頃、必ず見ていた番組がステージ101(NHK)

 なんていうのかなぁ。

 アイドルがどんどん出てきた時代なんだけど、やっぱり歌にとか希望とか未来とか・・・、そんなものを感じることができる歌が好きだったんだと思う(時代を感じるね)。

 ステージ101のメンバーって決してアイドル風ではなく、当時は近所に住むお兄さん、お姉さんっていう感じだったんだよね。

 これがまた親近感が沸くわけで。



 今の時代のように音にこだわり過ぎて、それを耳触りと感じるのは歳を取った証拠なのかもしれないが、いい音楽はいつ聴いてもいい音楽なんだよなぁ。

 結局カバー曲がヒットするっていうのは、いい歌の証拠でしょ。

 僕のようなおぢさん(笑)は懐かしく思い、君らのような若者は純粋にいいって思うわけよ(って誰に行ってるんだか、苦笑)。

 僕の音楽の原点は結局、永六輔さんや中村八大さんが作った曲なんだなぁって、思うこともよくある。

 ヒットしたとか、しないとか・・・、どうでもいいことで、純粋にその歌のパワーが伝わってくるってことかな。

 あ、たとえば、明日があるさなんてまさしくその粋だと思うんだけどね。

 だって、あの曲って僕らは坂本九さんで育った曲だし、今の若者はダウンタウン(他、吉本興業の面々)やウルフルズで・・・だよね。

 いい歌って、後世も歌い継がれるんじゃないかな。

 なんて、ちょっと偉そうなことを書いちゃったけど・・・。



 この若い旅って、本当は塩見大二郎って人が歌っていたんだよね。

 ちなみに塩見大二郎って、このとき以前に杉田二郎、細野徹次郎とジローズっていうグループを組んでいた時期もあった。

 あの張りのある声、かっこいいなぁって憧れたもんだよ。

 僕もステージ101のメンバーになりたかった(漠然とね)。

 今、聴いても胸がキュンとなる歌だよ。

 うん。

 ユーチューブにあったのは、残念ながら塩見大二郎ではなく、相沢忠彦・井上稔・伊藤三礼子・加藤芽久美というヤング101のメンバー。

 いやぁ、懐かしすぎる~。

 髪型も服装も・・・ね。

 で、これってヤング101の最終回のシーン。

 見ているうちに、あの時代にテレビにかじりついて、目をウルウルさせていた少年時代の僕が浮かんできた。

 嫌だね~、歳取ってくると昔を懐かしく思うんだよなぁ。

 こんなことを書いたら、歳がバレバレだな。

 今日のブログは、読み終えたら忘れてねっ。


shibacchi0821 at 23:48|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

2010年04月13日

ずっと好きだった







 一日ごとに天気が極端に違い、一喜一憂しているこの頃。

 今日は天気が良かったが、明日からまた崩れるような予報を聞くと、天気がいいのに何となく憂鬱な気持ちになってしまう。

 特に変化のある一日でもなく、何となく過ぎて行った一日。

 まぁ、そんなにいつも大きな出来事が起きていたら、頑強な僕(ふむ・・・?)でも、体がもたないか。






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 あ、最近気になる音楽があるんだけど・・・。

 坂本冬実君に恋してる・・・ではないっすよ。

 それにしてもこの歌、かなり流行っているらしいね。

 ビリーバンバンでしょ、原曲は。



 っと、まぁ世間ではそうなのかもしれないが、僕の中で今一番気になるのは斉藤和義ずっと好きだったなんだけどね。

 資生堂のCMソングでテレビからこの曲が流れてくると、耳から離れないんだわぁ。

 しかも起用されているタレントが80年代のアイドル

 荻野目洋子河合その子伊藤つかさ薬丸(石川)秀美

 うひゃぁ~、あまりの懐かしさに、おぢさんたちもドッキドキ

 青春時代が蘇ってきた人も多いんじゃないかな。

 この斉藤和義の『ずっと好きだった』と、4人の80年代アイドル、そしてキャッチコピーが・・・、

よみがえれ、私。






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 何となく、男の僕でも「よみがえるとするか。」って(笑)。

 顔とか身体ってわけではなく、気持ちっていうか・・・、精神的にっていうか・・・(苦笑)。

 久し振りにパワーのあるCMにちょっと脱帽。

 それにしてもこの曲、4月21日発売なんだって(とほほほ)。

 ♪ずっと好きだったんだぜ~♪







shibacchi0821 at 23:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2009年09月17日

涙の謝罪会見

 のりピーこと酒井法子が今日保釈され、たまたま家でのんびりしていたらそのニュースが目に入ってきてついつい画面に釘付け。

 そして2時間後には謝罪会見。

 この40日間、毎日といっていいほどワイドショーの標的になり、いろんな噂が蔓延っていたわけで、中には薬物に関係のないことまで取り上げられるといった格好の標的。

 何を言われても仕方がない立場になってしまった彼女だが、しっかりとした口調で謝罪をしていた。

 まるでドラマのワンシーンでも見ているような気がした。

 この会見で自ら引退の言葉を発するのかと思ったが、そのことについては触れてなく、いつかチャンスがあるなら復帰を考えているのかもしれない。

 元所属事務所の現副社長のコメントの端々には、「元(もと)」の言葉が無念さを物語り、やるせない気持ちでいっぱいだったのだと思う。

 特にレコード会社の会長が挨拶をしているときに見せた彼女の涙。

 本当に悔しかったんだと思う(自分にやってきたことに対して)。

 ほんのちょっとの遊び心から始まり、いつしかそれに染まってしまうってことはよくあること。 

 たとえが悪いかもしれないが、それがやってはいけない覚せい剤だったわけで・・・。

 もし、そのとき彼女が強く意思を持っていたら・・・。

 きっとこんなことは僕が書かなくても、何度も何度も彼女は考えたことだろう。

 家族のため、子供のため・・・ではなく、まずは自分のため・・・。

 自分の体のため、自分の心のため、自分の将来のため・・・を考えれば、必然的に家族や子供のことにもつながるし、何よりも復帰を心待ちにしているファンへの期待に添えるんじゃないのだろうか。

 謝罪会見で見た彼女はやっぱりオーラが違う。

 彼女にはもう一度、芸能界に復帰してきてもらいたい人物だと感じたのは僕だけではないだろう。

 僕は熱烈なファンではないが、それでも彼女の出ていたテレビ番組はよく見ていたと思う。

 今度は昔のように輝いた彼女を見てみたいものだ。







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2009年01月28日

タイムマシン(最終章)


タイムマシン(最終章)


 Y子から同窓会の手紙が届いて、すでに一週間

 ちょっとした空白の時間になると、ついつい昔を思い出してしまう日々が続いている。

 出逢った担任教師も僕の宝物だが、友人たちは簡単な言葉では言えないほど大切な人たちである。

 何気なく過ぎていった時間だったとしても、毎日が楽しかった。

 小学生の頃、最も多く遊んだ仲間は近所に住んでいたKちゃんT-BOAくんK男だが、Aくん以外は不参加となっていた。

 社会人になりたての頃、僕が故郷に帰ると必ずといっていいほど、このメンバーは集まりだし、飲み会が開かれていた。

 地元のやんちゃ坊主の集まりだ。

 しかし、今ではA君をのぞき、みんな故郷を出て行ってしまっているのだ。

 町の一角にある原っぱではいつも子供たちの声が響いていた。

 何にもない原っぱ・・・。

 それでもいつも子供たちが遊んでいた空間である。

 草野球、三角ベース、鬼ごっこ、かくれんぼ・・・。

 タイムマシンに乗って過去をやり直したいなんて思わないが、タイムマシンの窓から幼かった頃の自分たちが遊んでいる姿をもう一度見てみたい気がする。







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【元気そうでなにより!】







 ずいぶんとおじさんおばさんになってしまった面々。

 僕は・・・?

 年齢的には充分おじさんなのだが、精神的にはまだまだ若者ぶったりしていて、まぁ、この仲間と一緒に写真に入っていたら・・・やっぱり同じに見えるのかな?

 でも・・・まだ髪の毛はフサフサだし、黒々としているしなぁ。

 おでこも立派に(?)変わってないし~。

 まぁ、ちょっときりりとした目キラキラが最近たれてきているような・・・これが一番問題だったりする(っぷ)。

 みんな確実に歳を重ねているんだね~。

 っていうか、この年齢でどうして・・・?

 年取るの早くない???

 まるで他人事のように写真に向かってつぶやく自分がいる。

 そう、タイムマシンはやっぱり僕らと共にゆっくり前に進み、思い出のかけらを拾い集め、こうやって時期が来るとそのかけらを合わせてくれる機械というわけだ。

 今度、再び思い出のかけらを合わせてくれるのは、3年半後

 自分も含め、みんなが揃ってくれる日を楽しみに生きていきたいね。

 そのときは僕もこの写真の中に入れるようにするから。

 Y子、ありがと~。

 そして、恩師の皆さん、故郷の仲間たちもいつまでもお元気で~







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2009年01月27日

タイムマシン(第五章)


タイムマシン(第五章)


 小学生時代・中学生時代は一緒だったが、高校・大学では別々の道を歩んだ友人にT正がいる。

 彼とは中学時代の3年間、同じクラスで、同じ部活(バドミントン)だったこともあり、それ以来無二の親友として、社会人になってからもよく会っていた。

 多分、兄弟以上に兄弟のような仲だったと思っている。

 しかし、20代半ばに突然僕に、

「来週、イギリスに行くことになった。」

と告げ、心の準備もできていない僕の前から消えてしまった。

 それでも僕らの友好は続いていた。

 彼が日本にいる間は、お互いに人生につまづいたときにはお互いを励まし合い、喜びも分かち合ってきたのに、今は分かち合える距離ではない遠い国で生活をしている。

 2、3年前に一度帰国したことがあり、僕らの再会も久しぶりだった。

 送られてきた同窓会名簿のT正の住所欄にはロンドン在住としてか記されていない。

 多分、僕以外は彼の住所を知っている人はいないのだろう。

 Y子もきっとT正に同窓会の写真を送ってやりたいと思っているに違いない。

 お礼の手紙と共にT正のロンドンの住所も教え、同じ小冊子や写真を送ってもらうようお願いするとしよう。



 この同窓会に参加した面々は半数以上。

 しかし、半数近くは参加していない。

 そのひとつはやはり北海道を出て遠方に住んでいる人間たちで中には大阪や愛知に住んでいる者もいた。

 ちょっと驚いたのは東京の新宿世田谷に住んでいる人もいて、僕の勤務地に近い人もいたこと。

 こんな近くに住んでいるのに・・・。

 多くの人は小樽(故郷)や隣の札幌余市など道央に住んでいるようだが、やはり育った小さな町の住所にいる者は少なかった。







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【空を見上げて】







 僕が愕然としてしまったのは住所欄が未記入の者よりも逝去と書かれていたS子T彦だった。

 その欄に書かれていた逝去の文字が重くのしかかり、胸が苦しくなった。

 実はS子については、たまたまイギリスから故郷に帰っていたT正からの情報で、

「癌で亡くなったそうだよ。」

と聞いていたのだが、T彦については全くわかっていない。

 あいつとは小学生の頃によく遊んだ仲。

 もともと茶色いサラサラした髪の毛をしていて、お父さんが神主だったこともあり、彼も神主を引き継いだとまでは聞いていたのだが。

 神主になったのはいいが、そんなに早く神様のもとに行かなくたっていいのに・・・。

 いつ、どうして亡くなったのかはわからない。



 小さかった頃、誰が今を想像しただろう。

 誰もが大人になって、みんな立派に社会に貢献して生き抜いていくと思っていたのに。

 これから名簿を作るたびに空白の欄ができ、いや・・・逝去という重い文字がのしかかり、そのたびに心の中の灯火がひとつ消え・・・心が痛くなるんだろうな。



 もし、タイムマシンがあったら・・・。

 あの頃に戻って、過去に遣り残したことをもう一度・・・。

 いや、そんなことはできないのだから・・・、だから命は粗末にしたくない

 S子だって、T彦だって、そんな思いでこの世を去ったわけではないから・・・。

 住所欄を眺めながら、やっぱり仲間に会いたい気持ちが強くなってくる。

 逝去の欄が増える前に・・・。

 今の自分の言葉で言いたいことはしっかり言わなきゃ







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2009年01月26日

タイムマシン(第四章)


タイムマシン(第四章)


 同封された小冊子に目をやると、クラスの仲間たちからのコメントが書かれていた。

 その中にある恩師のメッセージ・・・。



 T先生(小学5・6年の担任)のメッセージ

 なつかしい顔、顔、顔。

 目を閉じて小学生の頃の皆様の様子を思い、なつかしいの一言です。

 悔いが残らぬようにと思い、こんな姿で出席させていただくことにしました。

 今日は大いに話し合い、楽しく過ごさせていただきます。

 パーキンソン病で書きました。

 おかしな字、はずかしいね。



 Y先生(小学6年生の隣のクラスの担任)のメッセージ

 ○○小学校を卒業して早△△年。

 当時の少年・少女達を見て時の流れの早さに只々おどろくばかりです。

 私もこの年齢になって冥土の旅の一里塚を数えるこの頃です。

 皆さまにお会いできるのを楽しみにしていました。

 幹事の皆さま、ご苦労様です。



 S先生(中学2・3年生の担任)のメッセージ

 同期会のご案内、どうもありがとう。

 中学校を卒業して××年、なつかしい顔に再会できたことを嬉しく思います。

 あの時代、君たちの卒業と共に私も12年間在職した中学校を卒業した年でした。

 あなたたちとは何か因縁めいたものを感じますね。



 K先生(中学3年生の隣のクラスの担任)のメッセージ

 退職後、まずまず健康で(ぎっくり腰あり)、ゆったり生活しています。

 自分が生徒で参加する同窓会は気軽に出席できますが、先生としての同窓会は、

「私の未熟さで、皆さまの大切な人生の一部を壊したのではないか」という気持ちになり、出席が重たく感じられます。

 皆さまはこれから楽しい人生が待っています。

 心身共に健康で過ごされることを祈ります。



 僕の人生に大きな影響を与えてくれた先生方も今ではただのおじいちゃんおばあちゃん

 それでもやっぱりメッセージを読んでいると、先生と生徒の間柄の気持ちになってしまうのは不思議なものである。







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【空を見上げて】







 僕は今でも忘れない

 僕の実力では合格は無理だとも言われていた高校に合格したときのこと。

 結果発表だって放棄して、見に出かけなかった僕の家に電話をかけてきてくれたのはK先生だった。

 僕以外の連中はよほど自信があったのだろう。

 合格を疑わずに自分の目で確かめに行っていた。

 それでもK先生は一番僕のことを心配していたようだ。

「しゅんち~。」

「合格したぞ~。」

 受話器の奥で聞こえるK先生の声を聞いていて、自分の耳を疑った。

 そんなはずはない、とも思った。

 僕は合格の喜び以上にK先生の気持ちが素直に嬉しかった。



 そして卒業間近にK先生が僕に言った言葉・・・。

「しゅんちみたいな人間がいるから、俺は教師を辞められないんだよ。」

 その言葉を聞いて僕は泣いた。



 K先生と出会って僕の人生は変わったけれど、僕と出会ったK先生も人生が変わったのは事実だ。

 お互い様なんだ・・・人生が変わるのも・・・。

 少なからず、僕の人生はK先生に出会えて悪い方には変わらなかったと思うよ、うん。



 この数日、僕はまるでタイムマシンに乗って過去の自分に戻った錯覚に何度も陥っていた。

 朝、目覚めたときに実家の僕の部屋のベッドに寝ていると思った。

 電車に乗るときにも、歩いているときにも、仕事の合間にも・・・ことごとく少年だった頃の自分になっていた。



 家に帰ってくると、また何度も写真と名前を見比べ、相変わらず一致しない顔を見ては苦笑の繰り返し。

 もちろん、この同窓会に参加できなかった仲間も多い。

 ほんの一部であるが、現在の住所を記載されていない人もいた。

 名簿を取り出して、僕は唖然とした。







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2009年01月25日

タイムマシン(第三章)


タイムマシン(第三章)


 カメラに向かって笑顔を振り撒く、おじさんおばさん

 そして中央には小学校・中学校の恩師の年老いた顔・・・。

 僕は愕然となって、テーブルに写真を放り投げた。

 部屋着に着替えているときにも、さっき眺めた顔を思い浮かべ“アレは誰だろう?”と何度も心の中で問い掛けてみた。

 再びリビングルームに戻り、写真を眺めてみたのだが、どうしても心当たりのない顔が並んでいる。

 誰一人として知っている顔がない。

 今でもクラスメイトの名前はほとんど覚えているが、写真を見る限りでは顔と名前が一致しない。

 その写真と一緒にもう一枚、写っている人間の姿をかたどった絵に名前が書かれてある用紙があり、それと見比べていくことにした。

 もちろん女子は旧姓で。

 実はこんな僕でも成績はわりかしいい方で、小学生の頃は学年で1番か2番を争っていたし、中学に入ってからも1年生まではほぼ完璧だったように思う。

 ところが、中学1年生の2学期に転校してきたS郎が、瞬く間にクラスのトップに踊り出て、それが影響したわけではないが、僕の成績は下がる一方。

 僕にとってのS郎は脅威だった記憶がある。

 どんなに頑張っても、あいつはその後の中学生活で一度もトップの座をゆずったことはない。

 そのS郎が写っている。

 でも、面影なんて何一つない。

 S郎髪の毛も・・・ない

 松山千春のような頭だ。

 F麿H樹H明も・・・ほとんど髪の毛がない。

 っていうか、面影さえも・・・ない。

 みんなよく僕の家に来て、一緒に飯食ったり、泊まったりした奴らだった・・・はずなのに・・・。

 よくここまでおじさん面してられるよなぁ。

 女子なんて、まったくわからん。

 名前と見比べていても、誰だか思い出すのに時間がかかる。

 Y子・・・君もだ。

 昔のY子の輝いていた顔が・・・どうしても思い出せない。

 A子は髪の毛が真っ白だし、他の女子も白髪染めかな???

 当時仄かに恋心を描いていたC子も全く面影がない。

 みんな、どうかしちゃったんじゃないか・・・。

 何だか、見てはいけないものを見てしまったようで、心の整理ができていない。

 僕は震える手で何度も、何度も、写真と名前を見比べているうちに、自分だけが取り残されてしまったような気持ちになってきていた。







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【空を見上げて】







 僕の時代は同窓生が64名の2クラスというこじんまりとした時代。

 小学6年生の担任2名、中学3年生の担任2名・・・その4名の恩師も出席してくださっていた。

 もう立派なおじいちゃんおばあちゃんである。

 中学時代にバドミントン部に所属していた僕を指導してくださったK先生

 数学の教師で当時は多くの生徒には嫌われていたようだが、僕はその先生がいたからこそ、バドミントンでかなりの成績をあげることができ、大好きな先生のひとりであった。

 もともと僕は教職願望だったので、出会った教師を嫌うこともなく、いつも冷静に先生たちの行動を眺めていたように思う。

 こんな先生になりたいなぁという思いを持って見ていた目標の教師象のひとりでもあった。

 4人の恩師が未だに健在していてくれたことで、心が温まる思いがしている。



T先生・・・(小学5・6年の担任)

 写真を見る限り、昔とちっとも変わってなく、きれいなままのT先生

 かなりのお歳(失礼)でありながらも、お元気そうでなにより。

 まだまだ長生きして、僕ら・・・生徒を見守り続けてくださいね。

 T先生の家にはよく遊びに行ったなぁ~。



Y先生・・・(小学6年の隣のクラスの担任)

 あの頃はまだ独身で、色男だったので女生徒からもかなりモテモテだったY先生

 小学校を卒業してからもよく見かけることがあった。

 中学校に入学した当時、真新しい学生服を着ている僕たちは、Y先生を見かけると、なんとなく照れくさく挨拶もそこそこに足早に去ってしまった記憶が蘇える。

 スポーツマンでかっこよく、お兄さん的存在の先生も今じゃ、誰もが認めるじっちゃんの顔

 まだまだお若い(写真でしか判断してない)ですから、この先もお付き合い、よろしくお願いします。



S先生・・・(中学2・3年の担任・合唱部の顧問)

 実は一番心配していたのはS先生

 元気かなぁ死んじゃってないよなぁって何度も思ってました。

 S先生の実家はお寺で、中学時代には夏休みになるとよくクラスの仲間でお寺の境内を借りてキャンプしてましたよね~。

 それから中学の3年間は合唱部の顧問部員としてのお付き合い、しかも高校にまで僕のことをアピールしたばっかりに、高校の3年間も合唱部に入れさせられ、歌わされましたっけ。

 おかげで、今でも美声でいられます。

 もう少し頑張っていたら千の風になっては僕の持ち歌になっていたかもしれません。

 今度は必ず会いに行きます。

 それまではお元気で。



K先生(中学3年の隣のクラスの担任・バドミントン部の顧問)

 覚えてる?

 僕が全日本チャンピオンと戦ったこと?

 あっけなく負けたけどね

 K先生がいなかったら僕の人生は大きく変わっていただろうなぁ、って思うぐらい、最高の人生を与えてくれた人。

 中学時代にバドミントン部に入れてくれたのもK先生一緒にやらないかの一言。

 そのまま高校時代も、いつもK先生は僕の背中を押してくれていた。

 写真を見る限りでは先生も髪の毛、真っ白になってしまったね。

 でも、一番変わってない。

 誰よりも昔の顔のままだよ。

 会いたいなぁ・・・。

 会って、また頭を小突かれたいなぁ・・・。

 なんだか、涙が出てきそうだから・・・。

 昔を思い出している今、僕は15歳の少年の気持ちのまま。


 タイムマシンで、あのときに戻れたら・・・。


 このまま、BLOGアップしちゃっていいのかなぁ~。







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2009年01月24日

タイムマシン(第二章)


タイムマシン(第二章)


 Y子から届いた最後の手紙は、20代半ばに来たもので、結婚しましたという内容のものだったと思う。

 それはもしかしたら年賀状だったかもしれない。

 当然、姓が変わるのだが、やはり違和感はあった。

 それ以来、彼女とは全くの音信不通状態

 特に意識してのことではない。

 僕と彼女は恋人でもなんでもない、ただの幼馴染であり、クラスメートだったわけだから、彼女が結婚したからといって格別ショックだったとか、そういう感情はなく、むしろ祝福すべき内容でお祝いを返した記憶がある。

 そんな彼女からの久しぶりの手紙を開いてみると・・・。







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【空を見上げて】







 同窓会小冊子とそのときに集まった面々の写真と一緒に一枚の便箋が同封されていた。

 え?

 同窓会があったの・・・?

 僕には何の通知も着てない。

 いや。

 来るはずがない

 中学時代の友人には無二の親友であるT正を除いて誰一人として、今の住所を教えていなかったのだから・・・。

 そのT正も今は日本にはいない。

 まさか、高校時代の友人から情報を取るなんてこともほとんどないに等しい。

 しかし、Y子のきれいに並べられた字を見て、納得。

『しゅんちの実家に電話をして、お母さんから今の住所と電話番号を聞きました。』

って・・・(苦笑)。

 そういえば、去年の11月か12月にわけのわからない電話番号が何度か着信記録に残っていたのを思い出し、一人苦笑する。

 しかも、局番が函館だったり、札幌だったり・・・。

 僕は親族関係の電話番号は全てといっていいほど携帯電話に登録しているし、親しい友人たちの電話番号も全て登録してあるので、そうではない電話はむやみやたらと受けたり、こちらから電話することをしない。

 その多くは間違い電話だったり、過去には怪しい内容のものだったりもしていたので。

 しかも郵便受けの封書も何通かは目を通していないものもあったかもしれない。

 後で見ようと思いながら放置していたものもある。

 とにかくDM関係などが多くて、うんざりしていたのである。

 あ~。

 心の中で後悔にも似たような溜息が出る。

 それでも封筒に同封されていた写真を広げ、さらに溜息を漏らすことになる。

 大勢の人がカメラに向かって満面の笑みを向けている。

 でも、そのほとんどは僕の知らない人ばっかりだったのである。







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2009年01月23日

タイムマシン(第一章)


タイムマシン(第一章)


 仕事から帰ってきて、郵便受けを覗くと一通の大きな封筒が入っていた。

 ちらっと封筒の裏を見たが、差出人に心当たりがない。

 “誰だろう?"

 どうせ、どこかの業者のDMかな、などと思いながら玄関の鍵を開けた。

 中に入り、扉の鍵をかけ、廊下のスイッチを点ける。

 靴を脱ぐ前にもう一度、その封筒に目をやった。

 女性の名前で、きれいな字だ。

 住所は・・・。

 ん?

 北海道函館市・・・?

 どうもDMではないらしい。

 函館?

 僕の生まれ育った町は北海道ではあるが、函館ではなく小樽である。

 靴を脱ぎながら、もう一度差出人の・・・。

 あれ?

 もしかして・・・。

 廊下を進み、リビングの扉を開けるときにはもしかしてという曖昧な思いから、いや、あいつだの確信へと変わる。



 あいつ・・・とは、幼稚園・小学校・中学校を共に過ごして来たY子

 僕とY子は小・中学校で一度たりとも別のクラスになったことがない。

 つまり、ずっと一緒のクラスで過ごして来た仲である。

 しかも何度も2人で学級委員に選ばれ、中学時代は生徒会でも議長と副議長の間柄。

 ときには2人の仲を誤解されてしまうほど、結構仲良しだったように思う。

 彼女は正義感溢れ、クラスメイトからも絶大な信頼を受けていたとも思う。

 彼女と僕は中学校を挟んで隣町に住んでいたのだが、それでも多くの仲間たちとよく一緒に遊んでいたものだ。

 田舎町に住んでいたにもかかわらず、男子と女子が仲良く、遊ぶ機会が多かったのはきっと彼女の気配りがあったからに違いない。

 2人とも中学時代は深夜放送が大好きで、ローカル番組のパーソナリティの話題でよく盛り上がっていた。

 精神的にはまだまだ子供だったが、深夜放送を聞くようになると二人とも何だか大人の仲間入りをしたような、そんなあまずっぱい時代を過ごしていた。







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【空を見上げて】







 中学生の僕は、すでにその頃から自分の人生設計を立てていて、高校を卒業したらこの町を出て東京の大学に行くことも決めていた。

 そのことを打ち明けていたのは唯一Y子だけだったし、Y子はいつもその応援をしてくれていた。

 そんなY子と会わなくなったのは、高校進学後、まもなくのことだ。

 僕は僕で勉強と部活動で忙しかったし、やはり高校の仲間との付き合いが比重を占めていた。

 もちろん、別の高校に進学したY子もそうだっただろう。

 高校時代に1度、いや2度ほどクラス会を開いたときに僕とY子が幹事を任されたのが最後だったような気がする。

 大学時代にも中学のクラス会の誘いがあったが、タイミングが合わず、不参加した僕はだんだんと故郷の仲間たちとも疎遠になっていってしまった。



 もちろんその頃は携帯電話などもなく、連絡を密に取るとか、メールのやりとりなどもない時代だ。

 社会に出てから、苦しいことに直面したとき、やはり故郷の楽しかった時代を振り返り、何度も田舎に戻ろうって思った時期もあった。

 大自然の中で泥だらけになって遊んだあの頃・・・あの町



 多くの仲間たちと海辺に出かけ、貝やウニをいっぱい取って、焚き火をしながら食べた短い・・・。

 仲間たちと山に栗拾いに出かけ、真っ暗になってから帰ってきて、親に怒られた・・・。

 近くの原っぱで要塞まがいの雪の壁(かなり本格的)を作り、毎日雪合戦に明け暮れた寒い・・・。

 誰も踏み入れたことのない山の中で、ふきのとうやねこやなぎを見つけて、いつの間にか自分の知識になっていった雪解けの・・・。



 たわいもないひとつひとつの遊びは、今、思うと自然の中で生活していたことが、実は大きな人間形成の場だったりしたのだろうか。

 子供は自然の中で、そして子供同士の世界の中で多くのことを学び、成長するもの。

 そういえば大人になってから何度も何度もそんな環境にもう一度戻れたなら・・・と淡い思いを抱きながら生きてきた。

 あれから何年・・・いや、何十年も経った今・・・。

 突然の手紙が届いたのだ。






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